映画『千羽づる』の考察~社会派を超えて

原爆による被ばくを背景とした映画は数多くある。その大半は戦争反対と声高に叫ぶメッセージ性が前面に出された、社会派の映画と捉えられている。

それはそれで世界に向けて意義はある。だがなにも、メッセージを伝えるだけが映画の役割ではないはずだ。
伝えることが目的なら、歌のほうが聴衆に一体感を与えやすいだろうし、鑑賞者に個別の感情を抱かせるのであれば、絵画のほうが適している。

音声という言葉と演技を記録した映像である映画には、歌や絵にはないものが必然的に存在している。それは演出だ。

また同じ映画でも、記録映画ではなく、映画館で一般大衆に鑑賞してもらうために製作されたこの『千羽つる』は、神山征二郎監督の演出を抜きにして語ることはできない。

ここでは『千羽つる』を単なる反戦映画ではなく、監督の演出意図を中心にして考察してみたい。

母と娘に重ねられた、命の二面性

映画『千羽つる』_001

悲運に見舞われた登場人物たち。その一人一人の胸の内に秘めた感情を、神山監督は細かな仕草によって観客に伝えている。
その最もたる人物は、倍賞千恵子演ずる母の重子と、広瀬珠実の娘禎子である。

生の活力としての母、死を担わされた娘

二人は原爆が投下された瞬間を境として、真逆の人生を送ることになる。被ばくしながらも生き続ける母と、十年を経て後遺症の白血病で死を迎える娘だ。

そして母は、やがて娘が死ぬことが分かってからというもの、生きていくことを意識しはじめる。自身に対してだけでなく、周囲の者に対してもだ。
一方の娘は、自らの死を知り受け入れていく。

生に対するこの対照的な姿勢は、二人のトイレでの排泄という行為によって如実にあらわれている。
和式便所にしゃがみ、排泄し、立ちあがるという一連の動作だ。

動作にみる二人の生きる姿勢

原爆が投下されたとき、母は排泄後に立ちあがった瞬間だった。素早く腰ひもを閉めるその仕草は、活力に満ちている。

かたや一人で歩くこともできなくなった娘は、尿瓶を使うことを嫌がり、母に背負ってもらってトイレへ行く。
ようやく個室へたどり着き、助け船を求めるように弱弱しく手すりを掴む。母は、娘を遺して廊下へ退く。

便器を前にした禎子は、ゆっくりとしゃがんでいく。
画面からいなくなるようなこのシーンは、禎子が生きながらも死んでいくようにも見え、息絶えるラストシーン以上に悲壮感に満ちている。

共有された動作の演出意図

親子の人生をつなぎもし、また分けもしている排泄の動作には、監督の演出意図があるのではないか。
もしかしたら、母重子のしゃがむ姿勢も撮影されたことだろう。だが編集で切り取られた。

未完成な行為は、後に娘の命がけの取り組みに受け継がれていくのだ。
それが生きものにとって最終的な行為とも言える排泄であることを思うと壮絶というほかない。

折り鶴に託したそれぞれの願い

映画『千羽つる』_007

この映画で最も重要なモチーフは折鶴である。
お見舞いとして受け取ったあと、禎子は自らも作り始める。
それは病気の快復を願ってのことだ。生命を永らえさせようとする切実な思いを、禎子は鶴に託している。

だが、病室の天井から吊るされた折り鶴の大群はどこか不気味だ。まるで、水子地蔵が祭られている祠のようにも見える。

母重子にとっての折り鶴とは

鶴は願いを叶えられなかった。少女の命は息が途切れるように絶える。

突然、母重子が鶴をむしり取る。そして、臨終に駆けつけてくれた禎子の同級生たちに一つ一つ手渡す。
その顔に涙はない。それどころか、制服を着た少年少女たちにかける声は、彼らを励まそうとするような力強ささえある。禎子の分け御霊を鶴に託し、元気に生きてほしいという願いが強く感じられてくる。

このときの重子には、生きることへの強さそのものである。

人物に役者の人柄を感じる演技

映画『千羽つる』_005

倍賞千恵子や前田吟、篠田三郎などの落ち着いた演技は、この悲しい映画に落ち着きをもたらしている。
そのなかで、看護師を演じた石野真子の明るい声がささやかな息抜きにさえ感じられる。役を演じる以前の、本人が持っているキャラクターが活きていると言えるだろう。

同じことが、主人公の禎子を演じた広瀬珠実にも当てはめられる。
少女は、当初は回復の希望を抱いていたが、自らの病状の真実を知る。もう逃れられない運命を受け入れるしかない。その気持ちの移り変わりを、広瀬朱見は実によく理解して物静かに演じている。

禎子の運命を無意識にみせた動作

それは例えば、こんな場面に見られる。
お見舞いに来た同級生を病院入り口で見送る。禎子は、友達のあとを追いかけるように、思わず階段を一段降りる。

同じシーンが、同室だった女性が退院したときに繰り返された。このときは、もう一段多く踏み降ろしている。

一歩は見送りのために踏み出せた。だが、二歩目は禎子の命の限界なのだ。だから三歩目はない。踏み出すことができない足は、禎子の運命そのものなのだ。

映画『千羽つる』_004

役に命を吹き込んだ広瀬珠美の女優力

この二歩目は演出なのかアドリブなのかは問題ではない。禎子の無力さを演技として魅せた、広瀬珠美の表現である。
この女優、この7年後に神山監督の『宮沢賢治その愛』にも出演しているようだ。だが、他の情報は検索してもでてこない。
至極、残念である。

また、岩崎ひろみが同級生役を演じているようだ。
彼女は、もしかすると主役候補の一人だったのかもしれない。しかし、生気あるその個性は、役柄のイメージとは少し違っていたかも、などと勝手に想像したりもした。

原作と映画の違いに演出を読み解く

映画『千羽つる』_002

原作を読んでいないので正確ではないが、どうやら禎子は臨終の直前に、お新香でお茶漬けを食べたいと言ったらしい。そして、ほんの少しだけ口にしたようだ。
食べ終わり、両親に「ありがとう」とお礼を述べ、生き途絶えた。

ところが映画では、この人生最後の食事、最後の言葉を取り上げていない。
その人物の存在を後世に色濃く残すであろうこの題材を、なぜ省いたのだろうか?
ここにも、神山監督の演出意図があるように思う。

鮮烈な印象を植え付けるお新香

お新香は、原爆投下の瞬間を振り返る回想シーンで登場する。
そのときに禎子が祖母の食べさせられていたのがお新香だ。

過去という記憶でありながら色鮮やかなお新香の黄色は、登場人物の記憶を超えて、観客に投下の瞬間の壮絶さを訴えかけているようだ。
それゆえ、この共有体験は、これから先もずっと我々になかに残っていくことになる。

なぜ最後の言葉は消されたのか?

これは想像でしか言えないが、もしかしたら、被ばくで命を失ったことを完結した物語としたくなかったのかもしれない。

犠牲者は禎子一人ではない。他にも大勢いる。
彼らは、様々な思いをいだき、亡くなっていったことだろう。

最後に感謝のシーンを写してしまうと、すべての被ばく死亡者がそうであったという間違った受け止められ方をされてしまう恐れもある。
そんな誤解を避け、禎子の物語に普遍性を与えようとして最後の言葉を省いたのかもしれない。

見せるだけが演出ではない、そんな監督の思いが感じられもする。

個人的な考察まとめ

映画『千羽つる』_006

これまで神山監督の作品は、『ふるさと』と『郡上一揆』の二作を観たのみだ。
だから限られた監督作からでしか考察できないが、その人間の心奥深い感情を、仕草で丁寧に描き出すのが神山氏である。

神山監督に社会派という肩書は相応しくない

ところで、監督をいつから社会派と言い始めたのか知らないが、この堅苦しい肩書は取り去って良いのではないか?

時代という大きな流れに押しつぶされた小さな人間を描くから社会派なのだ、というのなら、『ブレードランナー』や『グラディエーター』のリドリー・スコットも社会派と言えてしまう。
このくくりには、多くの人が疑問を抱くだろう。

カメラや照明や編集などに演出の意図を与え、役者の台詞と演技で肉付けする。それが監督としての役割であり、かつ映画を観る醍醐味なのだ。

しかし、神山征二郎氏を社会派と捉えるのでは、その全貌を知ることはできない。理屈だけが先走りする印象を否めない。

そうではなく、映画作家として神山監督の作品に一本でも多く触れていく。
この姿勢ことが、最も相応しい鑑賞なのだと言えるだろう。