映画『るにん』に見る奥田英二の変態性

俳優として長いキャリアを持ち、それに飽き足らず貪欲に監督へとシフトチェンジを図った奥田英二氏。
その二作目『るにん』は、身近な環境での隠された日常がテーマだった初作品『少女』から大いに飛躍している。

それは八丈島という本島からかけ離れた場所にあり、黒潮によって行き来が困難である。
人間どころか、鳥さえも近づかない。
暮らしているのは、普通の生活を法的に禁止された者たちだ。

荒い波が打ち寄せる小さな港に、今日も罪人たちが送られてきた。その一団を崖の岩から住人たちが眺めている。
列をなす罪人の一人が、見下ろしている女性の視線に気づき、二人の視線が行き交う。

奥田英二の生理的な趣向と変態性

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前作から舞台のスケールが一気に大きくなったとはいえ、その根幹にあるのは、はぐれ者たちの奮闘というテーマに変わりはない。
おそらく奥田氏は個人的にこのような人が好きであり、親近感を抱いているのだろう。

何も氏が口に出して言うまでもない。
常識ある役人顔で現れた男が突然に豹変し、暴力と性に身を崩すその演技を見れば一目瞭然だ。悪魔にでも憑依されたかのように恍惚としたその表情は、奥田英二の真骨頂でさえある。

恥を恥と感じることなく演じて、それが様になり、また本人もそれが好きという。
そんな稀有な存在が奥田瑛二なのだ。彼には変態という二文字が称賛になる。

監督の演出と俳優の演技の両立

付け加えれば、奥田氏が役者として登場するこのシーンは、他のシーンと比べて極めて特異だ。

大部分のシーンは固定されたカメラによって撮られ、人物たちは物静かに動く。
しかし変態が奔放に演じるこのシーンだけは、役者奥田英二が自由に動き回り、カメラが彼の後を追っている。

やりたい放題にも見えてしまうこのシーンは、専業の職業監督だったならNGを出したかもしれない。役者兼監督だから、自らOKを出せもしたのだろう。

監督と役者を掛け持ちしながら自分の色を出していくこの表現法は、チャップリンや北野武氏と似ていると言える。

不要な者たちと過剰な不足

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だが、である。
野営で飯を乞ったあげく殴り倒され、小刀を手にして女を手籠めにし、女郎の豊菊に殺される男の短い登場は必要だったのだろうか。

必要などなかった主役

辺境の地でのボーイミーツガール物語は、編集の基本に忠実に従った視線のやりとりで始まる。
主人公の喜三郎と豊菊ほか、様々な住人達が映し出される映像を観続けるにつれて、そんな疑問が頭を離れなくなった。

同じく豊菊もだ。
松坂慶子の白い肌と鳩胸が強調された胸元は、確かに男の本能を欲望をかき混ぜて騒がせはする。
しかし生身の彼女がそうであったとしても、物語でも同じだとは言えない。

表現物には、そういった側面がある。送り手と見る側は違うのだ。
奥田監督は、かつて彼女を頻繁にキャストしていた監督たちとは違うと願うばかりだ

散見される演出不足

菊三郎が現代的な話し方をしていたり、島娘お千代が取ってつけたように訛っていたり、最後の磔シーンでは竹やりを持つ群衆たちが単なるポーズでしかない。
背景がリアリズムであるだけに、このような細かな描写にまで気が配られていなかったのは残念だった。

捕らえられた最愛の男を眺める豊菊が地面に崩れ落ちる姿は、それが松坂慶子なだけに、いま観ているのは五社英雄作品かと勘違いしてしまったほどだ。

新たな物語を芽吹かせるのが脚色である

どの人物の存在を色濃くし、またどの場面に注目するか。ときにはどの人物を消し、場面をバッサリと省くか。
こういった脚色によって、映画は小説から新たな命を芽吹くことができるのではないだろうか。

原作を読んでいないので想像でしか言えないは容赦願うばかりだが、おそらくこの二人がいなくても物語は進行し、同じような結末を迎えられただろう。

だが、それは魅力にもなる

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欠点と言えるようなことを書いてしまったが、だからといって悪い作品ではない。
欠点など何にでもある。
誰でも持っていて、それがときに魅力にも変わりえる。奥田氏の変態性がそうであるように。
一般人としては欠点であっても、役者では独自性と受け入れられる。

奥田英二、その真の変態性

完成品の出来栄えを自分の価値観で良否判断するなど、小さなことだ。
そんなもの、これから永久に残り続けていく作品を前にして一瞬で死んでしまう。

そんなことよりも注目すべきは、通常なら数本をメジャー系列で監督して実績をつくったあと、やっと取り組めるだろうテーマに、まだキャリアが浅い二作目という段階で手を付けてしまったことだ。

昔話で日の当たらない者たちの忘れられた人生に、スポンサーが興味を示す可能性などゼロだ。
それでもやってしまった。

映画つくりの常識を逸したこの行為こそ、まさに変態と言えよう。

変態表現へ思うこと

ネットのあるブログによると、この映画の製作費は3億円だったという。
はた目に、そんなにかかってしまったのかと言ってしまうが、赤字は避けられなかったのではないか。

借金を積み重ねて変態を繰り返すのではなく、5千万ほどの小作品でその行為を数多く見せてほしいというのが本音だ。

人物と時間を共有する映画的喜び

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物語に戻ると、花鳥の成長していく様を観客として共に持てたことは喜びであった。
このように、物語の時間経過が我々に共鳴を与えることこそ、映画の醍醐味なのだ。

また、目が見えなくなった男娼が静かに歩くその姿は、能の一場面を彷彿とさせる。成長とは真逆の静止であり、それはこの物語全体の生死へと繋がっている。

島田雅彦氏にあらぬ勘違いを

前作に続いて登場した作家の島田雅彦氏は、ここでは主人公に知恵をさずける重要な役を演じている。
朴訥なしゃべりは素そのままで、出演時間は少ない。
だが、チョイ役ではないことを自覚して地図の解説をしている。

望めるなら、島田氏の出演シーンを増やし、一緒に船に乗りむなどしてほしかった。それで助演男優賞の候補にでもなってしまい、氏にバイプレイヤーという勘違いを抱かせてしまうのだ。

表現者が生き辛い日本

経済にうとい生き物なのが表現者だ。そして表現者にとって、日本はとても生き辛い国でしかない。
権力とお金を握っている者たちは、利益でしか成果を判断しないからだ。

彼らは、作品が心に深く残っていくという想像力に欠けている。だから、歴史という時間軸で映画製作に取り組む感覚がないのだ。

奥田氏に相応しい環境とは

言葉の問題もあるが、奥田氏はヨーロッパのほうが合うのではないか。
演技を通じたコミュニケーションができるかぎり、氏にも相手にも、言語は問題にさえならないように思える。

社会人としては落伍者でしかないロマン・ポランスキーなどの例もあるのだから。
変態度では、見ごたえのあるトップ争いをしてくれることだろう。