クリストファー・ノーラン監督のバットマンシリーズの中で『ダークナイト』は、バットマンが誕生する『バットマンビギンズ』と、その死を予感させる『ダークナイトライジング』の間にはさまれた二作目として位置している。
一般的に三部作と言われている映画の二作目は、これまでに見たこともないスケールや特撮によって話題になる一作目がより展開した作品として製作されるのが通常だ。
しかし『ダークナイト』はこの通例とは違い、単体作として鑑賞しても十分にその魅力を味わうことができる珍しい作品となっている。
それはクリストファー・ノーランが作品に込めた意図と演出、弟ジョナサン・ノーランが書き上げた緻密な脚本をはじめとし、一流のスタッフの総結集した結果だろう。
もちろん主役のクリスチャン・ベールほか俳優陣もだ。
その中でも、ヒース・レジャー演じた強烈な悪役は、物語を超えて一種のムーブメントにさえなった。この映画がロードショーを終えた今も伝説的に語られるのは、ヒースの存在にあると言えるだろう。
ここでは俳優ヒース・レジャーの遺作となった今作を、彼を中心して分析してみた。
なぜジョーカーは、これほどまでに狂気なのか?

まず最初に、何故この狂気じみた悪役は、ここまでバットマンを、そしてブルース・ウェインを苦しめたのだろうか?を考えてみよう。
街のチンピラのようにお金を目的としてはいないからだろうか?
ただ単に人やその集合体である都市、はてはその象徴であるバットマンを、執事アルフレッドが指摘したように、自身の快楽のために苦しめたいからだろうか?
現在という時間軸に存在する恐怖
そもそもの話だが、掴みどころのない人間というのは、その存在自体が人に恐怖を植えつける。
ジョーカーがバットマンたるブルース・ウェインに感じさせるのは、過去でも未来でもなく、現在の恐怖だ。
しかも不透明な。
この過去と未来という時間軸は、そのままノーランのバットマン三部作に当てはめられるだろう。
ここからは、この時間軸の中で、二作目の悪役ジョーカーを捉えていきたい。
過去と決別した一作目『バットマンビギンズ』

一作目は自分の過去を直視できないウェイン青年の逃避と、人生を切り拓きたいがための放浪という修行からはじまる。
そして暗闇へ転落して味わったトラウマを克服し、自分という殻をやぶり、別の仮面をつけて社会に対して積極的に働きはじめる。
自らの生き方を決めて、成長を見せるエンディング
最後には、育ての親であるラーズ・アル・グールを倒し、焼けくずれた我が成長の屋代を自らの意志で建て直すと決める。
映画のラストシーンで新たな対決を予感させはしているが、それでもブルースの”これから”に期待してしまう。
青年のこの一連の行動は、過去との決別と自立であり、まさしく”成長”と言ってよいだろう。
人間の未来を望んだ三作目『ダークナイトライジング』

一方、三作目である。
最愛の女性の死をひきずっていたところに、新しい女性との出会いがあり恋に落ちる。
ブルースは影のヒーローであることをやめて人間として生きていこうとする。
だが、その選択が彼を再び生の闇へと落としてしまう。再び穴に落ちるのだ。
自分で脱出するしかない
落ちたブルースを助けてくれる人はいない。
父親は一作目で既に殺され、その復讐から物語ははじまった。いまは、自ら這い出るしかない。
この行為は、愛するミランダが子供時代にとった行動と同じである。そうとうは知らず、ブルースは繰り返す。
かつてない必死さで戦うバットマン
街に戻りバットマンに戻り、ウェインは悪と戦う。その姿には、これまで以上の必死さが感じられる。
それはもちろん、ゴッサム・シティが核弾頭で破壊されてしまうからだろう。
しかしもう一つの理由もあるように見える。それが人間としての生活を夢見るウェインの願望だ。未来と言ってもいいだろう。
結局、ミランダとの未来は成しえなかった。
自らの死と交換してまでも街を救おうと、バットマンは遠く海へと飛び去って行く。
宗教的な救いにも見える光
そこで水平線に輝く光を見る。
この光に、観客は人間ブルースが夢見たイメージを重ねずにはいられない。
たとえ、バットマンの仮面をかぶっているとしてもだ。
崇高的で神々しい、人類すべてが望んでいるなにか。
それを、救済という”未来”と形容しても間違いではないだろう。
ラストシーンで一瞬だけ見えるブルースの小さな幸せに、”救い”にも似た感情を抱いてしまう。
現在に戦う二作目『ダークナイト』

過去という一作目と、未来という三作目にはさまれた二作目は、必然的に現在になる。
つまり『ダークナイト』は、いま物語が繰り広げられている映画ということだ。
この”現在”が悪役ジョーカーよって具象化されている。
感情と無縁な悪役ジョーカーの冷徹さ
ジョーカーはどこまでも冷静で、冷徹で、周りなどと何の関わりもなく自ら行動している。まるで時計の針だ。針は感情とは無縁に時を刻む。
この悪役は現在という概念を持っているから、物語を超えて、各観客の感情を揺さぶってくる。
なぜなら我々にも過去・現在・未来があるが、この中で、最も強烈に影響を及ぼしてくるのが”現在”なのだから。
ヒース・レジャーの演技力に名優も脱帽

もちろんヒース・レジャーの役作りは素晴らしい。
例えばこの場面。
ハービー・デントのためのパーティー会場に、突然乱入してきたジョーカーを間近から捉えた映像では、荒々しい息遣いとともに料理を下品に噛む音が生々しく聞こえてくる。
カメラは360度回転しながら、ジョーカーと彼に頬をつかまれたレイチェル・ドーズを捉え続ける。この対立する二人の緊張感がこちらまで伝わってくる。
アルフレッドを演じたマイケル・ケインは、この時のヒースの演技に自分の役柄を忘れてしまっとインタビューで語っている。
ヒース・レジャーは、この作品でアカデミー賞の助演男優賞をはじめ多くの賞を獲得した。
しかしそれらの事実よりも、イギリスを代表するこの俳優の一言のほうが、ヒースの演技力を如実に表しているだろう。
現在を権力で示すハービー・デント

バットマン、ジョーカーに加えて、現在という時を考えるとき、ハービー・デントを忘れてはならない。
地方検事たるこの男は、強力な権力をもって悪と戦う。その姿は時として独善的で行き過ぎているようにも見える。
だが、バットマンは彼を街のヒーローにするために、自らを悪者に陥れると決めた。
と同時に、ブルースとしては、意中の女性の未来をハービーに託して、身を引く。
全ての敗北を受け入れるブルース・ウェイン
ブルースは本来のヒーローとしても、また人間としても、舞台から降りることにした。負けることを受け入れた。
ジョーカーという強力な存在によって具現化された”現在”の戦いを、ハービー・デントに譲ったのだ。
どのようにも変化してしまう現在
しかしこの現在というのは、思い一つで良くもなるし悪くもなる。
ハービーはコインを中高く投げるが、それは単なるアピールでしかない。
彼にとっては未来はいつも決まっているのだ。
その未来がジョーカーによって狂わされた。それはあたかも、コインの片面が焼けただれたように。
そして社会を正すための力を持っていたハービー・デントは、その力を反対の向きに個人的に用い始める。
正義から恨みという悪へ
正義から恨みという悪へ。
いともたやすく人間は変わってしまう恐怖が、現在という時間軸のなかで表出されている。
街の平和のため。
ハービー・デントの本当の姿を知りながらも、隠さざるをえない。
バットマンも自らを悪者とするしか道は残されていない。もう未来はなくなってしまった。
人間の心理を魅せた『ダークナイト』

『ダークナイト』は原作のコミックの世界観を超えた、ノーラン監督の傑作アクション映画とみるのが一般的だ。
だが、ここで繰り広げた分析からは、恐怖という感情を題材にした心理サスペンス映画と捉えることもできるだろう。
恐怖を喜々として広める者、その恐怖に不安だが立ち向かわざるをえない者、そしてその恐怖から新たな感情を産み出して変貌する者。
このように、異なった様相をもって物語られている。
人間が持つこの複雑な心理が、過去のでもなく未来のでもなく現在のブルース・ウェイン=バットマンを軸に、姿をえて表れていると言えるだろう。