映画『クライ・マッチョ』変わらぬイーストウッドを観る

クリント・イーストウッドの最新作『クライ・マッチョ』は、西部の男が主人公の映画だ。
彼のマイクという名前は、マイケルの短縮形で、由来は戦う天使らしい。

だが彼は、もはやなんら戦う道具を持ち合わせていない。
暴れ馬を自在に操っていたのも、愛する妻との暮らしも、過去のこと。いまや日々のお金にも困っている。
もはや生きることを諦めているマイクが、恩人からの頼まれごとを果たそうとするなかで、ふたたび人生に関心を持ちはじめる、その様子をゆっくりと描いていく。

マイクの旅に同行する

イーストウッド監督作の映画『クライ・マッチョ』で、観客は主人公マイクの旅に同行する

マイクと共に旅するように、観客は彼の行動すべてに付き添う。一緒に車に乗り、少年を探し、危機に遭い、女性と出会う。

だがこの映画には、人物の視線や感情を伝える主観的な映像はほとんどない。
だからマイクが黒服の男に銃を向けられても、少年にポツリと心の内をもらしても、観客は心を揺さぶられることがない。
何故なら、感情移入してもらおうという意図が監督にはないからだ。

動く美しい風景画

メキシコの夕日が美しく撮られたように、老人や少年や女性は、スクリーンという画面に配置された構成要素でしかない。
『クライ・マッチョ』は、114分続く風景画なのである。

その一つ一つを監督イーストウッドが描いたことに、歓びを見出せるか。
映画を観るかどうかの分かれ目と言える。

小説が原作

映画『クライ・マッチョ』は、小説が原作

イーストウッドは監督としては、実話をもとに映画を製作することが多い。だが、今作は小説が原作になっている。
これは、ショーン・ペンとティム・ロビンスにアカデミー賞男優賞をもたらした『ミスティック・リバー』と同じだ。

『ミスティック・リバー』についてはこちら。
映画『ミスティックリバー』事実、現実、物語を演出する監督イーストウッド

また、孤独な老人が車を運転し、子供と出会って再び生きる気力を取り戻す設定は、『運び屋』と『グラントリノ』を連想させる。

『運び屋』の後日談

この二作は、どちらもニック・シェンクが脚本を書いている。そして今作を書いたのもニック・シェンクだ。

そのせいか、『クライ・マッチョ』は『運び屋』の続きか、もしくは後日談のような雰囲気がある。
罪を被せられた名もなき男に、最後のハッピーを与えようとしたかのように。

マイクは何歳か?

映画『クライ・マッチョ』の主人公マイクは、何歳の老人なのか?

ところで、マイクは何歳の設定なんだろうか?
いくらなんでも、イーストウッド本人と同じ90歳ではあるまい。80歳でもないだろう。

映画の冒頭で写される、マイクが引退することになった落馬シーンの姿は、30代にも40代にも見える。大目に見て、60代だ。

ロデオプロの引退年齢

日本人には馴染みがないロデオだが、アメリカでは人気がある。プロとして活躍している人もいるらしい。マイクもその一人だったというわけだ。

正確ではないかもしれないが、彼はRough Stock (ラフ・ストック)というロデオの中でも荒々しい競技をしていたようだ。
馬に振り落とされたり、下敷きになったりで、大怪我を負う危険も高い。そのため大抵は30代前半で引退するらしい。

余談だが、かつては日本人の芝原仁一郎氏もプロとして活躍していたと言う。芝原氏は43歳で引退したが、この年齢まで続ける人は珍しいらしい。

年下の老人マイク

これらを踏まえて考えると、現在のマイクは70歳前半といったところだろうか。
ちなみに原作では、38歳に設定されている。

いずれにせよ、スクリーンに現れるマイクは老人以外の何者でもない。ズボンの尻はずり落ち、肌からは水分が抜けて干乾び、皺が目立つ。

そんな男を、90歳のイーストウッドが演じている。彼は自分よりも年下の老人を、自分よりも老けているように演じたのだ。

こんな不思議な事実が成立していることに、驚かずにはいられない。あのずり落ちたズボンも、カサカサな肌も、すべて演出というわけだ。

年上で若いイーストウッド

映画『クライ・マッチョ』を監督するイーストウッドは、マイクより年上だが見た目は若い

実際、カメラの横に座っている素のイーストウッドは、マイクよりも断然若く見える。
だからマイクの老齢さにイーストウッドを重ね合わせて、「ああ、イーストウッドも年を取ったもんだな」と思うのは、勘違いでしかない。

そんなマイクが馬にまたがったり、古い車のハンドルを握った姿は、もはや役柄のマイクではなくなっている。
かつての西部劇や刑事ものの映画で見たイーストウッドそのままだ。

何ら変わらない孤独な男

イーストウッドは、50年前と何ら変わっていない

確かにマイクは、自分の体以外の何一つ持っていない。悲しい現実だ。
ところが観客は、これこそを望んでいる。

身一つで無謀にも乗り込んでいくマイクの姿は、かつての”名もなき男”や”ダーティーハリー”と何ら変わらない。

強い日差しに目を細めながら、一言一言ゆったりと語るように話し始めたその瞬間から、観客はそこにマイクではなく、イーストウッド自身を見る。
寝際にカウボーイハットの端をつまむ仕草は、50年前と同じだ。

クリント・イーストウッドという人物は、世間とは違う時間の流れの中に生きている。
ここに何らかの魅力を感じるかどうかで、『クライ・マッチョ』に対する観方に差が出る。

新しい友、盟友との仕事

映画『クライ・マッチョ』のカメラマンは、盟友トム・スターンではなく、ベン・デイヴィス。

イーストウッドは、撮影のトム・スターン、編集のジョエル・コックス、美術監督のヘンリー・バムステッドなど、長年同じスタッフで映画を製作してきた。
何人かはこの世を去ってしまったため、かつての息の合った仕事ぶりを今作で見ることはできない。

新カメラマンとの相性

健在であるトム・スターンがカメラを回していないのは残念だ。
代わりに、『キングスマン ファーストエージェント』を撮影したベン・デイヴィスが担当している。

アクション系が得意なこのカメラマンは、抑え気味に演出するイーストウッドとは相容れなかったようだ。
感情を表情で表わしたいカメラマンと、背景も含めた人物の全体像で感じさせようとする監督の間に温度差があるように感じる。

とくに女性が物語に登場しはじめてから露になる。マイクが少女を含めた女性たちを見つめる視線が、主観客観どっちつかずなのだ。

演技に先立ち感情を表す映像

『クライ・マッチョ』で、マイクはマルタが登場すると同時に恋をする

イーストウッドは、彼女たちとぎこちなく接しはじめながら、徐々に打ち解けていくマイクをと考えていただろう。
だが実際スクリーンに映される彼は違う。マイクは、やがて恋に落ちるマルタの姿を見たとたん、彼女を恋愛の対象として見ている。
それを分からせるほど、カメラが人物の感情を持っている。

もしかしたらイーストウッドは、この分かりやすい感情を観客に抱いてもらいたいがために、盟友トム・スターンの抑制が効いた映像をあえて避けたのかもしれないが。

ジョエル・コックスの編集

映像による感情表現が過剰になるのを抑えているのが、盟友ジョエル・コックスの編集だ。
イーストウッドの演出を肌で知る彼だからこそ、甘ったるさに墜落してしまうところだった映画を、何とか救い出すことに成功している。

だから尚更、抱き合ったマイクとマルタが急いで離れる全身のシーンが、観る者の心に訴えかけてくる。
編集によって、離れ際の瞬間の映像を一コマだけ戻して重ねられている。
まばたきほどの間に繰り返されるこのシーンが、二人の感情をそのまま表わす以上にドラマチックにしている。

イーストウッドを観に行く

イーストウッドを見に行く映画『クライ・マッチョ』

とは言え、映画として求心力は弱いと言わざるを得ない。イーストウッドでなかったら、何の魅力も見いだせない映画になっていただろう。

『クライ・マッチョ』は、スクリーンに戻ってきたクリント・イーストウッドを見に行く映画なのだ。
ハリウッドの盛り上がりも、ここにある。決して、映画の物語を楽しむのではない。

この傾向がさらに増しているのが、日本の公式サイトだ。
内容のなさを何とか隠して盛り上げようとする意気込みが、サイトの雰囲気に漂っていて悲しくもなる。

センスゼロのポスター

『クライ・マッチョ』のポスターは、『パーフェクト・ワールド』のパクリでしかない

さらに追い打ちをかけているのが、日本版ポスターだ。
上部に顔のアップがあり、その下に映画タイトル、その下に歩く二人の姿という構図は、イーストウッドが監督した1993年作『パーフェクト・ワールド』とまったく同じだ。

文字の大きさと人物像のバランスも悪い。

そこに、取ってつけた感丸出しで薄茶色の丸を加え、コピーを書いている。
男のロマンのような要素を説明したかったのだろうが、逆にそいでしまった。

『クライ・マッチョ』の日本版ポスターから、茶色の丸を削除した
茶色の丸と文字を消すと、雰囲気が出てくる

独自性を求めたセンスなき日本人の発想

外国産の物をわざわざ独自に作り直そうとする日本人的な発想は、かつての車のデザインに見られた傾向だ。
外国人デザイナーに依頼して仕上がった美しいスタイルの車を、その後継車では日本人デザイナーに乗り換えて、全てを台無しにしてしまったように。

その典型的な例が、ジウジアーロがデザインしたピアッツァだろう。
流線的で美しいフォルムが、二代目では見るに堪えられない姿に変えられてしまった。

力がないのに、わざわざ独自のものを作ろうとする浅ましさ。
アメリカ版ポスターそのままで十分よかったのに。

『クライ・マッチョ』の外国版ポスター

驚くべき事実

だが一番驚くのは、この映画の製作費が3,300万米ドル(約38億円)ということだ。
公式発表ではないから信ぴょう性は高くないが、だとしてもお金がかかり過ぎではないか。いったい、この内容と規模で、どこにお金をかけたのだろう。

30億円といったら、日本映画なら超大作だ。
ジブリの『千と千尋の神隠し』が20億円ちょっとらしいが、その上ということになる。

これで佳作

これだけの大金をかけて、老人と子供の、イーストウッドにとっては佳作でしかない映画を製作する。
ハリウッドのお金のかけ方は、少し変なのではとさえ思えてくる。

それでも、『運び屋』の製作費は5000万ドル(約58億円)、『グラントリノ』は今作と同じほどという。
となると、実際のところは、お金をかけていない作品の平均的な製作費ということになるのだろう。

コケないイーストウッド

『クライ・マッチョ』の日本公開は2022年が明けてすぐだった。
劇場では、『キングスマン ファーストエージェント』や『マトリックス レザレクションズ』、『呪術開戦』などが上映中だった。
しかし『クライ・マッチョ』は、それら話題作と対抗する作品ではない。

もともとイーストウッド作品は、イーストウッドが好きな人が映画館へ足を運ぶ。そんな映画だ。
大ヒットもしないが大コケして赤字も出さない。

41作目の前作

だから今作も、ファン以外の一般客までをも巻き込むヒット作にはならないだろう。題材も地味だし、赤字にはならければ良しという程度だ。
イーストウッドファンの間でも、俳優51年目で監督41作目の前作品というにとどまるはずだ。

最後に

『クライ・マッチョ』を観て、イーストウッドを堪能した気分になってはいけない。
彼は自らハリウッド商業主義の階段を下りた。「アウトローのヒーロー」というスターの道を進まなかった。
独自性を貫いたその姿は、『クライ・マッチョ』のマイクに重なる。

イーストウッドの過去作品に触れて、その変わらぬ姿勢を感じてみる。
必ずや、今後の映画の観方が豊かになる。