映画『無限の住人』(木村拓哉主演、三池崇史監督)

映画『無限の住人』の万次の死と生、木村拓哉というスターの因縁

映画『無限の住人』(木村拓哉主演、三池崇史監督)

久々に木村拓哉氏が主演する映画が、SMAPの解散という日本全国を巻き込んだ事件の記憶が冷めないうちに公開されました。
ここに、何か因縁のようなものさえ感じる人は、多いのではないでしょうか。
でもこの同時性は、スターだけが経験する特殊な通過儀礼のようにも見えててきます。

この洗礼でしょうか、映画も芸能ネタ扱いされたり、彼が主人公に適役かどうかを問う原作漫画ファンによる批評にばかり世間の目が行きがちです。

しかし、『無限の住人』の主役を演じた役者としての木村拓哉、ならびに作品そのものを映画として捉えてみる必要があるのは確かなはずです。
この立場から試みたのが、以下の文章です。

木村拓哉なくして『無限の住人』は成り立たない

最初にお断りしなければなりません。
ここで書くのは、原作が長年続いたベストセラー漫画の無限の住人(amazon)だったり、アニメ化(amazon)・舞台化もされているという予備知識を一つも持たずに、映画を観た感想ということです。

したがって、原作ファンの方からすれば見当違いな点もあると思いますが、そこはご了承ください。
なお、あらすじをなぞって点数をつけたり、ネタバレ御免といった切り口とは違うことも、併せてお伝えさせていただきます。

この映画は、スターである木村拓哉氏の映画であることは間違いありません。だから、おのずと関心はスクリーンに映し出される彼の姿に向いていきます。

彼の立ち振る舞い、しゃべり、視線の動き、そして殺陣。ここに目が行くのは当然です。

変な言い方ですが、実際にこの映画は、その繰り返しです。彼が出ていないシーンは、極限まで短くブツ切りに編集されています。
つまり、木村拓哉氏なくしてこの映画は成り立ちえません。

生と死、白と黒、目

死んでおかしくない怪我を負いながら、生き返るように再び立ち上がる万次(まんじ)。最愛の妹を自分の不覚から殺されながらも、自らは死ねない。

死という現象のこの両局面は、白と黒(もしかして濃紺)という相容れない色の着流しによって冷たく映し出されています。
しかし、その大ぶりな袖から伸びる両腕、はだける胸元は、切り落とされ刀を突きさされるたびに野蛮さを強く帯びはじめます。そこには、生への執念さえ感じられます。

ところで、手や胸は再生するが、なぜか刀で切られた目はよみがえりません。血仙蟲(けっせんちゅう)とは、そういうものらしいです。

映画『無限の住人』 主演:木村拓哉の目

それはともかく、死に続ける片方と、生に飢えるようにギラつき剥き出でくるもう一方は、着流しと等しく生き物の両局面を同時に宿しています。

役に命を吹き込む、その喜びを知った役者

片目の存在感、それはテレビでよく見るキムタクからは想像できません。
テレビドラマでは、もっぱら都会で暮らす格好いい青年の役です。それが木村拓哉氏本人だと視聴者は勘違いしています。

だが、そんなイケメン要素は、この映画には一つもありません。
世捨て人同然に生きる万次の姿は、周到に作り込まれた食べ方、物言い、敵に向かう直前に刀を一回転させる仕草、そして目の動きによって活力を得たのです。

そして時に、カメラがピントを合わせてくるのを待っていたかのように、目は焦点を定めます。
映画俳優が台本と演出を超えて、役に命を吹き込む喜び。木村拓哉氏がそれをなしえた一瞬です。

もしかして、彼は日本で一番不幸な俳優ではないか

思うのですが、もしかしたら、この人ほど不幸な俳優はいないのではないでしょうか。

視聴率ウンヌン、週刊誌や芸能ネタで真っ先に叩かれてばかりです。つねに色眼鏡のかかったゴシップばかりで、演技が話題にされることはほぼありません。
それに、いつまでもロンバケじゃないでしょとも。

まあおそらく、こんなこと本人は気にしていないのかもしれませんが。

はたして、登場する人物はそこにいたのか?

作品として思うところは、30巻と言う長い漫画(amazon)を140分の映画で見せることは到底出来ないことです。
どこかに焦点を当てることになり、よって別の部分は削られます。取捨選択がされるわけです。

原作を知っている方にすれば、登場人物や武器などにおいて、忠実に再現されているかどうかが出来不出来を決める判断の一つになるでしょう。

しかし、全く予備知識がなかったからでしょうが、登場人物の中には、その存在に首をかしげる者も何人かいたように感じました。
しかも彼らは、ほんの数分、二言三言で残酷にあっけなく殺されたり、自害する。

原作と映画の在りかたを問う二人の登場人物

原作の人物を忠実に再現したのかもしれませんが、映画においての取捨選択には物語の凝縮という形をとってもよい訳で、こうする場合は若干の変更があっても許されると思います。

そんな例は、いくらでもあります。
それによって、原作とは違った映画独自の面白さが生まもするでしょう。

その代表的な人物として、市川海老蔵氏が演じる閑馬永空(しずま えいくう)と、山崎努氏の伊羽研水(いばね けんすい)を取り上げてみます。

生き続ける虚しさを説けた男:閑馬永空

映画『無限の住人』:市川海老蔵

閑馬永空は万次と同じように「血仙蟲(けっせんちゅう)」によってほぼ不死身になり200年生きている人物です。
彼も、万次のように愛する人を失い、生きる辛さを背負っています。言わば、万次の先達です。

生と死、そして殺生のむなしさを万次に教え諭すこともできた、唯一の人物でありえたはずです(これだ原作とは真逆の人物設定になってしまいますが)。

死は、継承と断絶だと予見させられた男:伊羽研水

映画『無限の住人』:山崎努

伊羽研水は、自らの流派を逸刀流(いっとうりゅう)二代目の統主である天津影久(あのつ かげひさ)の傘下に組み入れようとしますが、その一歩手前で自害します。
この背景は、映画の主流ではないので略されてしか表現されていません。

伊羽の役目は、流派継承の行く末を鑑賞者に予見させることです。
その結末は天津によって現されますが、いかんせん伊羽の登場から自害までのシーンが短すぎます。

死を継承と断絶の側面から体現できえた人物であっただけに、これ以前に、もう一場面登場していても良かったのではないかと思います。
そのほうが、山崎努氏の渋さも味わえたはずです。

せめてあと20分、命を長らえられたら

いずれにせよ、どちらも死に殺し以外の意味を持たせ得た人物になりえたはずです。

あと20分物語を長くしてよいなら、上記二人と主人公二人の関係を、生きることの虚しさと現実世界での裏切りを描くことによって、映画に厚みを持たせられたことでしょう。

三池氏らしさだけで終える人物たち

また、女性の剣士が二人でてきますが、どちらか一人でも良かったような気もします。

一方は金髪で他方はワイヤーアクションという、三池監督でおなじみの要素を体現していたというだけで終わっています。

家を飛び出していった浅野凜(あさの りん)を追いかける万次の前に現れた三人組や、市原隼人氏の尸良(しら)も同じです。

その中で光る、市原隼人という爽快さ

映画『無限の住人』:市原隼人

しかし市原氏が現れたとたん、画面が活き活きとしはじめたのは、なぜでしょうか。

さらに、時代劇にサングラスや金髪などの異要素が唐突に出てきたことが、気持ちよくさえあります。
ここが三池作品を味わう楽しさでしょう。

カメラ・編集・気迫

アクションでその名を世界に知られた監督は、映画の冒頭からその連続で中盤まで引っ張り続けます。

そのほとんどは、万次の顔のアップか、相手と切り合う上半身のシーンで繋がれています。
連続するアップ、しかも人が次々に死ぬシーンです。
目が痛くなったり、気分も重くなろうものですが、ここではそんな感じがしません。

カメラは、万次の敵でも味方でもなく、そこにいる

それはおそらく、一つ一つのシーンが素早くないからです。細かなショットを連続させることでスピード感と迫力を出そうとはしていないのです。

その代りに、殺し合いをしている男を、カメラは比較的近い位置から捉え続けます。万次の敵でも味方でもなく、そこにいるのです。
これがシーンを構成しているカメラの基本姿勢です。

撮影のときは、カメラの位置を変えることによって演技は中段されたとしても、その回数は少なかったのではないでしょうか。あらかじめ決めておいたシーンを一通り流して撮影して、別の位置にカメラを移動させて続きを撮るといった具合に。

素材を加工しなかった編集

だから、斬られた相手が突然振り返って血をドバーっと飛び散らせることもないし、切り落とされた首の向こうに万次が刀を構えていることもありません。

ショッキングさで観客を驚かそうという意図がないのです。編集で魅せようとは、していないのです。

映画は編集によって、役者の演技や監督の演出という素材が、より良くも悪くもなる一面を持っています。
しかしこの映画は、編集室で何とかしようと苦心されてはいないのです。

我々が観るのは、万次か?木村氏か?

この長く続く人斬りのシーンを緊張に満たしているもの。それは、侍という万次の生きざまであり、それはそのまま役者木村拓哉氏の気迫です。

映画『無限の住人』:ラストシーンの戦い
この気迫こそがこの映画の全てです。

もはや、この男は死なないと知っていることは問題ではありません。それは物語の設定でしかないのです。

観るべきものは、感じるべきものは、その奥にあるのです。

それでいいのか?ラストシーンよ

それほどの役者魂を見せられながら、ずっと腑に落ちないのは、ラストシーンです。
やっと死ねたと思ったが、やっぱり死ななかった。その台詞で幕を閉じます。

余韻を残した終わり方だとも取れますが、オチをつけた形でもあります。漫才で、最後に「いいかげんにしなさい」と終わるみたいに。

果たして、この終わりの迎え方は映画だけなのでしょうか?
芝居やアニメでも、同じだったのでしょうか?

そこに、誰の意図があったのか?

思えば、この終わり方は、今時の日本映画によく見られる典型例です。
深読みすれば、この作品がヒットすれば続編をという製作者側の思惑さえ浮かんできます。

生と死という普遍的なテーマを不死によって物語るのは、『ノスフェラトゥ(Youtube)』といった古典映画や『死霊のはらわた(Youtube:気色悪いよ)』などのスプラッタームービーでもお馴染です。

これらの作品と比較することは、この文の主旨ではないので控えます。また、製作された背景が違うので、一様に考えることもしない方が良いでしょう。

あえて問う、もう一つのラストシーンを

映画『無限の住人』:別のラストシーン

前にも書きましたが、死を殺し以外の側面で捉えられる人物も登場していただけに、娯楽アクション映画だとしても、別の終わり方があったのではないか?と考え続けました。
例えばこんな風な。

決闘の最後で、天津影久は去りゆく。追いかける浅野凜、万次がその後を走る。

天津の剣が浅野を突き刺そうとする間際、万次が身をていして防ぐ。
組み合う天津と万次、浅野。カーブした刃先が浅野の身体を突き刺した。

またも愛する者を失った万次。悲しみの咆哮。
翌朝、生きる辛さに絶望しながら歩きはじめる。消えるように。

映画が映画で終わらないために

ハッピーエンドとはいきませんが、物語を140分だけで終わらせることなく、観客が自ら考えることで映画に参加してもらう終わり方もあったのではないでしょうか?

読後感が良い本が記憶に残りやすいように、観客の心に向けた終わり方を製作者たちは意識しても良かったのではないでしょうか?

現に私たちは、同じ時代劇映画で『七人の侍(Youtube)』という傑作を持っているのですから。

エンターテインメント+思想=映画

映画館で過ごす2時間ちょっとが、カラオケやゲームというエンターテインメントとは違う体験を提供できるのは、そこに送り手の思想があるかどうかです。
この作品でも、それは伝えられたはずです。

しかし実際には、観終わって深く入ってきません。
なぜなら、断言しましょう。
言葉を二度用いるという使い古されたアイデアだけでオチをつけたからです。

音楽も、全体的にいま一つ大人しい印象です。エンディング曲は、本編となんの関係があって選ばれたのでしょうか?プロモーション?
正直、キムタクに負けています。

楽しむだけなら、映画は他のエンタメに、もはや勝てない存在になっていると知るべきです。

本当のヒット作、無料のテレビ

作品が人生に影響を及ぼすに至っていないのです。
この脚本の姿勢が、キムタクが日本ほど知名度を持ち得ていない海外でどう受けとめられるのでしょうか。肩透かし、期待外れ、失笑でないことを祈るばかりです。

本当のヒット作とは、ファン以外の人達もが映画館に足を運ぶ作品を言うと思うのですが、どうでしょうか。
映画『無限の住人』:万次を演じる木村拓哉の

この本に、それだけの底力があったでしょうか?

テレビで無料で見られる姿を、わざわざ時間とお金を遣ってまで観に行くのには、それなりの理由があるはずですから。

武士の一分(DVD:amazon)』のように、主役の意気込みがそのまま伝わってくるだけに、この一点が残念です。

終わりに ~ それぞれへのエール

とは言え、物語は一応の結末を迎えました。上に書いたラストシーンも、あくまで個人の勝手な空想で、本編の内容を上回るものでは決してありません。

しかし再び、あえて問う。映画を超えて

ここまできて、思います。
映画のラストシーンを木村拓哉氏と、他のメンバーと重ね合わせるのは、暴挙すぎるでしょうか?

こんなことは、映画の分析だけを書いてきたこの文の範疇を超えているのは勿論承知です。

SMAPの熱烈なファンという訳ではありませんでしたが、それでもあの一部始終は気になっていました。
やはりグループの解散、番組の終了は惜しまれます。

終わりは新たな出発

自らで導き出したこの選択は、これまでの長い活動に終止符をつけたという意味で、死とも言い換えられるでしょう。
スマスマ最後の放送は、まさに葬式だったという噂もあります。

でも同時に、それはメンバー個々の新たな出発点でもあったはずです。
別の生が始まったのです。

そんな期待が、ラストシーンを思い出しながらこの文を書いていて胸に浮かんできました。
5人が、それぞれの道で活躍されることを願ってやみません。

木村拓哉氏がこの映画で見せる気迫には、観客が映画を超えてエールを送りたくなる、そう感じさせるものがあります。

 

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