映画『ミスティックリバー』のイメージ画像

俳優、監督として50年も第一線で活躍ているクリント・イーストウッドだが、何もキャリアが長いから尊敬されているのではない。イーストウッドは今も50年前と、40年前と、30年前と変わらず、毎年のように映画に出演し監督していることが凄い。まさに映画が人生そのもの、映画界の生神様とさえ言えるかもしれない。

近年は実在の人物や実話をもとにした映画が多いが、2003年に公開された『ミスティック・リバー』は、小説が原作である。この点では、日本では2022年公開の『クライマッチョ』と同じだ。

演技以上に物語るイーストウッド演出

『ミスティック・リバー』は、第76回アカデミー賞でショーン・ペンが主演男優賞を、ティム・ロビンスが助演男優賞を受賞した作品だ。三人の主要人物のうち二人が受賞したことから、その演技ばかりに目がいきがちになる。

だがこの作品は、物語の構造と映画としての表現に実に長けた作品。そこでここでは、原作の小説をイーストウッドがどんな意図をもって表現したのか、そして俳優たちがイーストウッドの演出に、どんな気持ちで演技をして応えたのかを考察してみたい。

出演の喜びと学び

この考察は作品本編に加えて、DVDに収録されているティム・ロビンスとケヴィン・ベーコンによる音声解説を元にしている。
副音声と言うとなかには、出演者やスタッフたちが撮影の苦労を話すことで終わりがちなのも多い。だが『ミスティック・リバー』の副音声は、そうではない。

ティム・ロビンスとケヴィン・ベーコンは俳優であり映画監督だが、彼らはどちらの立場からも語っている。その会話を聞いていると、イーストウッド作品に出演でき、彼の演出を身をもって味わえた喜びが活き活きと伝わってくる。演技プランと演出に関心がある者にとって、大きな収穫を得られること間違いのない副音声だ。

ボストンへのこだわり

映画『ミスティックリバー』舞台になったボストンの橋

今作では監督に徹したイーストウッドは、原作者デニス・ルヘインが生まれ育ち、小説の舞台でもあるボストンでの撮影に強くこだわった。本来なら、予算をかけなくてすむバンクーバーで撮影される予定だったらしい。それをイーストウッドが、小説の雰囲気を崩したくないと主張したという。

実体験が生む真実味

陽気さから遠く、気分の晴れない人々が暮らす街ボストン。
灰色の空の下、裏通りで少年たちはホッケーで遊んでいる。そして二十年を過ぎたいまも、時を止めたように同じ暗い空がある。街を変わらず包んでいる重い空気は、どこか冷ややかさを感じさせる。

そんな都会の下町の建物の中で、照明を落として彼らは静かに毎日を送っている。
この路地で起きた映画冒頭の誘拐は、小説家の実体験だ。イーストウッドは、その真実味を崩さないために、事件が起きた街ボストンにこだわったのだろう。こんなところにも、イーストウッドの映画製作への姿勢が表れている。

違いがあるのは、この次のシーンだ。
子供だった小説家は事件を母親に告げたという。一方の映画では、友達のショーンとジミーが、テラスで話し合っていた男二人に助けを求めている。この男たちの姿は、後にジミーとデイブが同じくテラスで語る姿につながっていくことになる。

相手が女性から男性に置き換えられたことで、女性という性が薄められ、男性性が感情を伴って前面に出てきた。だがこの両性の存在は、映画のラストで逆転することになる。

陰に影を見せる照明

映画『ミスティックリバー』照明を使わずに撮影されたために自然な陰影が生まれた

この小説に真実味を加えようとしたイーストウッドの狙いは、街へのこだわりと同じく、人工照明を極力使わなかった撮影にも見ることができる。一般の映画撮影では表情が分かるように顔に照明を当てるが、イーストウッドはこれを嫌った。
そのため、軒下の日陰を人が歩くシーンなどでは、その顔が薄暗くぼやけている。ティム・ロビンスが演じるデイブの顔に、ピントが合っていない瞬間もある。生気を失った彼の白い顔は、自然光だからそう見える以上に、過去の事件から抜け出せないでいる男の鬱屈した精神を思わせる。
さらに、デイブの家は照明が落とされてどこもが暗い。妻も子供もいる暮らしはごく一般的な家庭だが、デイブの心理状態が雰囲気として漂っている。

実話だと感じさせる映像の重みは、このような抑えた照明がそう思わせているのだろう。

主役三人の創造

映画『ミスティックリバー』イーストウッドが出演者と打ち合わせる様子

小説を読んだイーストウッドは、主役三人であるティム・ロビンス、ケヴィン・ベーコン、ショーン・ペンの配役がすぐ頭に浮かんだと言う。特に、娘を殺された父親のジミーは、ショーン・ペンしか考えられなかったと語っている。

ケヴィン・ベーコンは、この作品の数年前にイーストウッドを待ち伏せて挨拶し、以来ずっとオファーを待っていたと告白している。
幼馴染で刑事のショーン・ディヴァインを演じた彼は、他の二人が喜怒哀楽を見せているのと違って、無表情であり続ける。まるでディヴァインという姓がそれを物語っているかのようだ。これについては、後ほど書いてみたい。

ティム・ロビンスが演じたデイブは、子供の時に受けた苦痛から今も抜け出せないでいる。ボサボサ髪と青白い肌は、まるで老人のようだ。ジミーやショーンと同年代にはまったく見えない。
190センチを超える上背のティム・ロビンスだが、虫のように小さく見える。その役作りにあたり彼は、実生活での個人体験をもとにせず、役の気持ちを想像することに徹したと言う。

俳優、監督として得たもの

この主役三人を演じた誰もが、俳優であり監督であることは興味深い。それぞれが、イーストウッドの監督術から得たものがあった。ティム・ロビンスとケヴィン・ベーコンは、イーストウッドの演出に刺激を受けたと語っている。
いまやベテランとなった二人だが、作品数が自分たちよりも断然多いイーストウッドだからこそ、安心して演技に集中できた。この喜びは大きかった。新人監督との仕事は新鮮ではあるが、自分たちの方がキャリアが長い分、心配な一面があることは隠せない。だが、今作ではその心配がなかったと。

イーストウッドの演出術

イーストウッドは、撮影テイクが少ないことで有名だ。ほとんどを1,2テイクで終える。多くても3テイクという。テイク数が少ないからこそ、俳優たちは撮影に真剣にならざるを得ないと二人は話す。何十テイクも重なると疲れるし、飽きてしまうとも。

自身俳優でもあるイーストウッドは、演技は新鮮な気持ちで演じられるうちが良いことを、師とあおぐドン・シーゲルやセルジオ・レオーネから学んだ。この経験がイーストウッド監督の原点である。
だから一日の撮影時間は8時間ほどで終わる。役者たちは撮影後にジムへ行き、食事をとり、家族とくつろげた。そして自主的に集まって、翌日の撮影のために台本の読み合わせをしたと語っている。

映画『ミスティックリバー』イーストウッドがショーン・ペンと打ち合わせる様子

また、役者が自分ではNGカットだと思っても、イーストウッドはOKを出すこともあったらしい。例えば、こんなシーンだ。
病院のロビーで、ジミーとショーンが話している。感情が爆発したジミーがテーブルを叩いた拍子に、コーヒーがこぼれてしまう。それをショーンが紙ナプキンで拭く。突発的なアクシデントだったが、イーストウッドはそのまま演技を続けさせOKカットにした。
他には、ベランダへ出てきたデイブが煙草を吸おうとマッチに火をつけたシーンがある。その瞬間、ジミーに声をかけられて驚いたデイブは、マッチの火で火傷する。ティム・ロビンスはNGと思ったらしいが、イーストウッドはOKとした。

このように、イーストウッドは突発的なアクシデントによる役者の反応を活かす監督である。これも師から学んだ演出法だ。

しかし一方では、こだわらなさもイーストウッドだ。場面の展開でカメラが空を写し、ハトの大群が舞うはずのシーンがあった。だがハトは、数羽しか飛ばなかった。イーストウッドは「なら仕方がない」と、このシーンを諦めた。
並みの監督なら、このシーンにハトは欠かせないと粘っただろうとティムとケヴィンはささやき、こんなこだわりのなさもイーストウッドらしさだと言っている。

時の止まった男たち

『ミスティック・リバー』は、デイブ少年が遭遇した不慮の災難と、その後の人生の物語だ。この不運は、ホッケーのボールが道路わきの溝に落ちてもう遊べなくなる未来と重なる。友情の終わりだ。

ドラキュラと化し洞窟からよみがえったデイブ

数十年が経ち、結婚し子供と野球をする親になったデイブだが、彼の心には子供時代のトラウマが今も残っている。溝に落ちたボールが残っているように。
そのボールを息子は何とかして取ろうとするが、デイブは「また今度にしよう」と家へ帰っていく。ボールを取り出す気もなく諦めたそのつぶやきは、あの出来事をきっかけに、抜け出せない闇へと落ちてしまったデイブ自身だ。もはや彼は過去の残滓でしかない。

映画『ミスティックリバー』苦悩に満ちたデイブの顔

人生を諦めて現在も未来もないデイブが、唯一、心の内を曝け出すのが、テレビでドラキュラ映画を観た後だ。彼が本当の自分を吐き出すその姿は、この世に未練を残して死んだ者が乗りうつった霊媒師のごとくである。もし恨みが肉体が持つとしたら、まさにそんな形を見せるだろうと思わせる。まさに死んで生きている男だ。
デイブは誘拐されたときに死んだも同然になった。閉じ込められた暗い地下室は、ドラキュラが生を得る夜の世界である。太陽の光を避けて眠る棺は、誘拐中に寝ていた薄い寝袋を思い出させる。

彼の名前がDAVE(デイブ)なのも深い関りがある、こういうのは深読みしすぎだろうか。
デイブは地下室という洞窟に閉じ込められ、必死になって逃げ出してきた。洞窟は英語でCAVE(ケイブ)と書く。デイブのDの前には、Cがある。つまりDAVEはCAVEから生まれたと。今のデイブは、地下室の体験からよみがえった存在でしかないことが名前に隠されているのだ。

このような登場人物の名前つけは、小説の構想において意図されていたのかもしれない。他の名前にも意図を読み取ることができる。

神としてのディヴァイン

刑事ショーンの名字はDEVINE(ディヴァイン)だが、この単語には宗教的、神聖なという意味がある。古くは、聖職者や神学者、牧師などを指していた。これらの延長線に、神を想像するのはたやすい。
ボストンの街並みをミスティック川の向こうに眺めるショーンの姿は、天上から地上を見下ろす神のようだ。

映画『ミスティックリバー』神の審判者としての刑事ディバイン

神である以上、ショーンには地上の暮らしが許されていない。彼は既婚者だが別居中で、妻ローランとは電話するだけ。だが妻は声を発しない。受話器を持った口元が大写しにされるのみで、そこに人格は感じられず、象徴的な女性像として映る。
ショーンは個人的に地上とコンタクトを取ることが許されていない。デイブやジミーのような日常の夫婦関係を送ることはできない。同僚女性からの誘いを断るといった禁欲的な態度をとる。これは宗教家、聖職者としての自分を認めているようにも見える。

この刑事ショーンが、不在の妻の代わりを務める相棒刑事と二人で、二組の夫婦の感情を揺さぶっていく。これこそが映画『ミスティックリバー』の根幹だ。
実際、事件を解決していく刑事ショーン役のケヴィン・ベーコンが、映画の物語を先へと進める。彼がいなかったら、ジミーの娘の死は、三人の過去とは結び付けようがなかったのも事実だ。
『ミスティック・リバー』は事件の映画だ。だが同時に、ショーンが神の場所から旧友二人が生きる地上世界へと降り、ついには夫婦の幸せを取り戻す、言わば宗教家や聖職者が還俗する映画でもある。

三様の妻たち

またこの三人の男の物語は、その妻たちの物語でもある。ショーンの妻ローランは、地上での幸せを享受できない夫が持つ、女性のシンボルとして登場していることはすでに述べた。そこで、他の二人の女性について書いてみよう。

古典的な悪妻アナベス

映画『ミスティックリバー』夫を悪の世界へいざなうアナベス

まずは娘を殺されたジミーの妻アナベスだ。彼女の夫ジミーは、かつては刑務所にも入っていたが、いまは雑貨店の経営者として、また街の悪漢とも付き合いがあるなど、この世界で様々な存在感を示している。
その夫の陰で一歩身を引いた後妻として、アナベスはただのお飾りのようにいる。その彼女が、ジミーから殺人の告白を聞いた瞬間から、夫以上の悪漢ぶりを示して存在感を見せはじめる。

Annabeth(アナベス)という名前は、シェイクスピアの『Macbeth(マクベス)』に語感が似ているが、これは原作となった小説家の意図したところだと言う。夫をベッドに押し倒して馬乗りになり、肉欲的に女性性を見せ、悪に生きていこうと焚きつける物言いは、マクベス夫人そのものだ。

悲劇のヒロイン、セレステ

刑事ショーンの妻ローランは女性の象徴として、娘を殺されたジミーの妻アナベスは悪の創造として、物語を超えてその存在を示しえる女性たちだ。だがデイブの妻セレステは真逆だ。

今作では、娘が殺された父親の怒りという感情に眼がいきがちになる。だが、人物の感情の揺れ幅を最も見せているのはセレステだ。かばっていた夫に疑惑を抱き始めて、ジミーに助けを求める。彼女の感情の揺れが、物語が進む先を大きく転換させていく。

映画『ミスティックリバー』悲しみの感情を一手に受けるセレステ

セレステは、「愛情」「悲しみ」「不信」といった感情をすべて背負わされている。彼女は物語から出ることができない。象徴の受肉化であるローランとアナベスと異なり、自分が置かれた状況に飲み込まれそうなほど弱々しい。
その悲しみはマーシャ・ゲイ・ハーデンの繊細な演技はもちろんだが、それ以上に、彼女が身を置く空間が如実に表わしている。例えば、電灯の消された階段と壁に延びる黒い影。心の闇を投影したその映像的表現は、ドイツやフランスの表現主義映画の心理描写からヒッチコックへというサスペンスの系譜に沿っている。
ラストのパレードで、大勢の観客の中を悲しみに耐えて画面奥へと走り去るセレステの姿は、『天井桟敷の人びと』のバチストのようであり、これからの人生は『自転車泥棒』の貧しい男のようにどん底だと思わせる。

一方では心理の表現主義に、もう一方では人生の波に飲み込まれる小さな個人を描くロマンに、セレステは映画の歴史が築いてきた物語手法を一手に背負う存在にされてしまった。物語から消えるように遠くへ去っていくセレステは、夫デイブにもまして小さな虫のように映る。

地上の愛と悪の宣誓パレード

映画『ミスティックリバー』それぞれのパレード

消えていくセレステの代わりに、象徴であったローランとアナベスが肉体をもった存在として現れる。
パレードを見物しているショーンは、妻ローランの肩を抱き寄せる。通りの反対側では、悪漢と共にアナベスが見物している。そこへジミーが黒いサングラスをかけながら階段を下りていく。
審判者としての神であったショーンはこの世に降り、妻を取り戻す地上の幸せを手に入れた。彼は人間になった。
一方のジミーは、サングラスで目を塞いで悪が待っている地下へ潜ることに決めた。大げさな身振りで拍手の音を周囲に響き渡らせる姿は、その決意の宣誓のようにも見える。

ジミーと目が合ったショーンは、指でピストルの形をつくって撃つ真似を見せる。原作ではこのシーンの前に、ジミーを逮捕するとショーンはセレステに約束している。
だが映画では、ショーンの真意は測りかねない。演じたケヴィン・ベーコンでさえ知らないでいる。彼がショーンの心理を監督に尋ねたところ、イーストウッドはこう答えた。
「観客が決めることだ」

曖昧で不確かな未来の選択

映画『ミスティックリバー』手でピストルをつくるディバイン

イーストウッドは、曖昧さを残したまま終わるラストシーンを選んだ。見ようによってピストルは、現世界に降り立ち、人間としての生を得たショーンの意思表示にも思える。だが、映画としての結末はつけられていない。
曖昧さを残しながらも次の展開を暗示させるエンディングが、ハリウッド映画には多い。そうやって、観客の次回作にたいする期待を駆り立てようとするわけだ。
だが、『ミスティック・リバー』に後日談が語られるパート2は、当初から想定されていなかった。決定づけされていない未来を選択するところは、イーストウッド自身のキャリアと重なるようにみえてしまう。

孤高のイーストウッド

彼は西部劇のテレビドラマから映画へと進出し、世界的なスターとなった。そして、それまでの刑事の世間的なイメージを壊すダーティーハリーという人物を演じることで、自身の新たなスター像を築くことになる。

映画『ミスティックリバー』のイーストウッドが過去に演じた役柄

イーストウッドは言う。このままシリーズを重ねていけば、順調にスターの階段を登っていくことはできたと。
だがそうはしなかった。彼は自ら映画を製作し、監督する道を選んだ。見えてしまうこの先を良しとしない姿勢が、クイント・イーストウッドをエンターテイナーではなく芸術家とした。
吐いて捨てるほどつくられるハリウッド映画、ハリウッド俳優のなかで、彼が孤高の人に見えるのはこの姿勢がためだろう。

音声解説で本音を知る

現在『ミスティック・リバー』を映画館で観ることはほぼ不可能に近い。だから必然的に家でDVDで観ることになる。そのおかげで映画製作の秘話を知る恩恵があるのも事実だ。この文章も、DVDの音声解説に収録されているイーストウッドやティム・ロビンス、ケヴィン・ベーコンのインタビューを参考にしている。

動画配信サイトで映画を気軽に視聴できることはありがたい。だがネット配信では、音声解説を聞くことはできない。映画をより深く積極的に知ろうとするときには、やはりまだDVDに分がある。
音声解説では、作品に関わったスタッフたちの本音が聞けるだけに貴重な資料とも言える。

イーストウッドには『ミスティック・リバー』のほかにも、『ミリオンダラー・ベイビー』、『チェンジリング』、『グラントリノ』、『クライ・マッチョ』など、老人と少年少女を主題にした作品も多いが、その理由も今作の副音声で知ることができる。
もし死刑が許されるのなら、それは未来ある子供たちの自由を奪った者たちに課せられるべきだとイーストウッドは言う。一人の人間としての姿勢が、表現者としての根底にある。

一般の視聴者はもちろんだが、映画を分析的に捉えたい人達や俳優や映画製作者にとって、副音声は得るところは多い。必ずや深く響くことだろう。
読まない映画の実践に、『ミスティック・リバー』の副音声解説を強く勧めたい。