ジム・ジャームッシュ監督作『デッド・ドント・ダイ』

久しく聞くことがなかった監督の名前が懐かしく耳に飛び込んできたのは、まだコロナウィルスが蔓延する前だ。初めてその名前を聞いたときは”ムッシュ”と入っているから、てっきりフランス人と思っていた。フランス語で男性をあらわすムッシュが姓で、名前がジムジャーだと。風変わりな名前のように、その映画もこれまで見慣れた映画とはどこか変わっているな、と思ったものだ。
この監督がほぼ自主制作でつくった『ストレンジャー・ザン・パラダイス』と『ダウン・バイ・ロー』が、当時は映画を超えたトレンドになってもてはやされた。それから半世紀ちかく経ち、この間に監督は何本もの映画を製作し、久し振りに映画館で観た作品が死者が蘇りたるゾンビ映画というのも不思議な感じがする。ちなみに姓が”ムッシュ”ではなくてジャームッシュ、名前がジムジャーではなくジムと知って、風変わりなのは映画だけで名前はごく平凡なことに拍子抜けの気分を持ったのと同時に、絶妙なバランス感覚なんだなと訳の分からない納得感も持ってしまった。

相変わらずな風景、人物、描写

ジャームッシュにとって『デッド・ドント・ダイ』は2020年の作品だが昔の作品となんら変わっていない。舞台の小さな町の風景はおよそ30年前の『ミステリー・トレイン』に似ている。まるで登場人物たちは時間をこえて変わらず生き続けているようにみえる。一発の銃声とプレスリーの幽霊をめぐる各人物の思惑をかつて映像化したジャームッシュ監督は、今回はゾンビというこれまた古典的な題材で披露してくれている。

ジム・ジャームッシュ監督『デッド・ドント・ダイ』の舞台となった小さな町と人々


町に住むのは嫌われ者、食堂の女性、雑貨屋のオタク、鑑別所の少年少女、葬儀屋、モーテルの経営者とお客。おたがいに顔くらいは知っているだろうが関わりも薄く、いつも無表情でいる。このごく限られた関わり合いの面々が、まるでオムニバスのように取りあげられていく。
ジャームッシュ監督かつて回る地球を軸にして世界各地での出来事を物語った『ナイト・オン・ザ・プラネット』をつくった。この作品ではそれぞれのエピソードがはっきりと分かれていて、つながりはなかった。
一方、『デッド・ドント・ダイ』は同じ町の中で物語が展開する。住民は突如現れたゾンビに恐れながらも果敢に戦いはじめる。彼らにはゾンビという共通の敵はいるが、全住民が一致団結して立ち向かっているわけではない。それぞれが個別に自分のためだけに戦っている。あるシーンの人物たちは、他のシーンの人物たちのためには存在していない。それぞれが戦い、ゾンビに食われ、自分もゾンビになる。外国から町にやって来た者は宇宙船に乗って去ってしまう。少年少女は誰にも、まさしくゾンビにも知られず、身を隠して生き延びようとする。これらのエピソードには何の関係もない。この奮闘が2時間弱の中でゾンビを軸にしてつながれている。
かつての回る地球のように物語の区別をはっきり分からせるシーンは見られないが、関係のないエピソードが1本の映画にまとめられているということで、『デッド・ドント・ダイ』はオムニバス形式と言ってよいだろう。

ジム・ジャームッシュ監督作『デッド・ドント・ダイ』で一人でゾンビと戦い、UFOに乗って町から去っていく女性

そんな彼らの中でひときわ際立って変な存在なのが、謎の異邦人として町に住んでいた女性だ。彼女は人知れず修行し日本刀でゾンビを殺しはじめる。町の住人と協力して戦うのかと観客は期待するがまったくそんなことはなく、彼女は一人で戦う。そして突然にUFOに乗って飛び去っていく。もしかしたら本物の宇宙人はこんな風に人類とは何のかかわりもなくやって来て、人知れずに立ち去ったのかもしれない。言うなら、一人勝手に。『ET』のような友達でもなく『インデペンデンス・デイ』のような敵でもなく、まして救世主でもない。そんな人間に都合のよい存在でなく、昆虫や野良猫のようにただ単なる生物としての宇宙人というように。

深読せざるをえない警告

こういうのもベストタイミングと言うのだろうか?町の人々の行動は、コロナウィルスで右往左往する現実世界の人間の行動のようにも見えてくる。そのなかのある者たちは、この災難を生き延びるためのヒントをも示しているように思える。それは少年少女と主役の警官たち三人組だ。

ジム・ジャームッシュ監督作『デッド・ドント・ダイ』で鑑別所に入れられている少年少女

少年少女の一組は鑑別所の、もう一組は車で町にやって来た。鑑別所の三人は狭い空間に監禁され、服装も同じで性別もハッキリしない(自分から区別しようとしない意図もあるが)。生気もなく、その姿は個をみせて生きることを禁止されたも同じだ。そんな彼らは、やがてゾンビに見つからないように身を隠して逃げ出す。
一方、ドライブの途中で町にやって来た三人組はあっけなくゾンビに食われてしまった。はち切れんばかりの肉体で若さをみせる少女と、不良をきどった少年たちは性をこれ見よがしに出して生きることを楽しんでいる。彼らの楽しみには禁断の快楽という領域も感じる。

主役の警官三人は町をゾンビから守るために戦う。対抗できるだけの能力を持っていないゆえ怯えを隠しきれない。結局、奮闘も実らずに諦めとともにゾンビになってしまった結末は、人類という平凡な生き物の限界にも思えて悲しくなる。

唯一ゾンビにならなかったのは鑑別所の三人だが、彼らはおそらく無事に逃げられただろう。だが安心はできない。今後ずっとゾンビに怯えながら、ひっそりと生き延びていくしかない。ゾンビからだけでなく、スクリーンからも逃げようとしているその後ろ姿は、氷河期や弱肉強食や飢饉といった大惨禍に耐えてきた小さな哺乳類のようにも見える。おそらく人類史でもひっそりと身を隠した者がいたおかげで人間は生き延びたのだろう。
この二組の少年少女は主要な役ではない。だが彼らに警官をあわせた三者の生き様と消え方の辛らつな対比は、映画を超えて何かを発信している。それはどんな事態になっても生きていくしかない人類への警告と言っても大げさではない。例えば今回のコロナウィルスのように。

歴史、神としての世捨て人

ところで、ここまでで話題にでていない人物がいる。ジャームッシュ作品にお馴染のトム・ウェイツだ。彼が演じた世捨て人も鑑別所の三人同様にゾンビの魔の手から逃れた。

ジム・ジャームッシュ監督作『デッド・ドント・ダイ』でトム・ウェイツが演じる世捨て人

だが彼はそもそも町の住民ではなく、町とは眺める対象でしかない。ゾンビと戦おうとか人々を救おうとかそんな気はさらさら持っていない。最初から最後までゾンビに襲われる町を観察する傍観者であり続ける。事の成り行きを見守るこの姿勢は神の立場とも言えるだろうし、事の顛末の記録そのものとも言える。これが伝説ともなり歴史ともなり、後に語り継がれていくのだろう。もし彼がそれを希望するとしたらの話だが。もしかするとコロナ危機に対しても、人間はいつか過ぎ去ることをじっと待ち、かつてこんなことがあったという程度に思い出すしかできないのかもしれない。

未来を読む目をもった芸術家

芸術家とは一般人とは違う物の見方と感じ方をする人種だ。その中には、未来を予見する能力を持つ者がいる。もしかすると、彼らは『デッド・ドント・ダイ』はゾンビ映画である以上に、コロナウィルスの蔓延と何かしらの因縁を感じているのではないだろうか。このタイミングの良さは狙ってできるものではないのだから。それをハリウッドから遠く離れて、ゾンビ映画というB級ジャンルで成し遂げてしまったジム・ジャームッシュという名をコロナウィルスと同じくしっかりと記憶にとどめるべきであり、決して忘れてはいけない。