映画『お熱いのがお好き』

これまでに何度見たのか忘れさせる映画がある。『お熱いのがお好き』はまさにそんな作品だが、単にコメディだから面白いのではない。この作品にはハリウッド流の映画製作の技術、物語の運び方、役者がスターとして輝きながら演技する要素が結実しているからこそ何度も観返したくなるし飽きないわけだ。初めて観る人でも、ハリウッド流コメディの真髄を受け継ぐビリー・ワイルダー監督の意気込みを感じることだろう。
公開時は観客にも専門家にも好況だったようで、様々な賞レースを『ベンハー』と争った。多くのトロフィーは逃したが衣装部門は受賞している。

定番中の定番『お熱いのがお好き』がなぜ何度見直しても面白いのか、その面白さはどうつくられているのか、これらの分析を試みたいと思う。

ワイルダーが意図した物語の構成

映画『お熱いのがお好き』の物語はビリー・ワイルダー監督の意図によって三幕で構成されている

物語は大きく三つに分けることができ、どれも足元からはじまっている。一幕目は、シカゴの駐車場に降りたスパッツの足元だ。物語はこれ以前に隠れ酒場から始まっているが、追われるジョーとジェリーと、追うスパッツ一味の接点はこのシーンだ。
二幕目はジョーとジェリーが女装してジョセフィンとダフネになり、フロリダへ向かう列車へ歩くシーンだ。カメラはハイヒールでぎこちなく歩く二人の足を後ろから捉える。直前にジョーは裏声で芸能事務所に電話をかけていた。そして映像は二人の顔のアップから歩く後ろ足へ、女装した上半身ショットへと繋がれている。
女性の服に着替えたり化粧の場面はすべて省略されている。物語にリズムを生みだしたこの編集の妙が、これから何か起こりそうだというワクワク感を観客に抱かせる。いきなり女性として仕上がった二人を映すことで、時間と物語の省略だけでなく、笑いというこの作品の肝になる要素を生みだした。それまでのサスペンス調が、一気にコメディに変わった瞬間である。
第三幕目はフロリダだ。オペラ愛好会に参加するスパッツが足元から再登場する。コメディに味を加える形でサスペンス調が復活する。

Writers Guild Foundationの動画『The Writer Speaks』でワイルダーは脚本を家に例えて、土台の上に壁や柱があるように、映画では一幕目に続く二幕目の強さが重要だと語っている。男が女装するアイデアを土台として、その上にサスペンスとコメディの要素を含めて物語をつくる。足元のシーンで三幕に分ける分析は、監督の構想に沿っていると言えそうだ。

物語を構成している足は、単に体の器官だけでないということだ。ここからは、構成要素としての足が持つ役割を細かく見ていこう。

男の足、女の足

映画『お熱いのがお好き』の第一幕で、シカゴのマフィアのボスと手下たちが駐車場で銃を撃つシーン

男の足でまずあげられるのがマフィアのボスの足だ。彼の足元は名前と同じスパッツで厳重に守られている。足元のスパッツの役割は、靴を汚れや小石などから守ることだ。防寒の役割もあるが、お洒落で綺麗好きなボスを考えると前者だろう。彼は常夏のフロリダでも、足元のスパッツを欠かさない。
糊がきいた白いスパッツは他人と交わらないように色がなく、どこか重々しい。横へ広がる形の線は、彼を取り巻く四人の男たちへたどり着く。屈強な彼らは高学歴の弁護士で、肉体と知能の両方を持ち合わせてボスを守る。

今作にはもう一つ男の足が登場する。だがその前に女性の足について書いてみたい。まずは性の違いによって足が持つ象徴的な意味を理解するほうが、物語の構造を捉えやすいからだ。

女の足がマリリン・モンローのそれであることは疑いようがない。女装したジョーとジェリーが見とれたのは、ヒールを履いたシュガーの足だ。性の対象としてはもちろんだが、ジュリーは履きなれないヒールに足をくじいているのに、難なく歩いてゆく彼女の姿に、機関車の蒸気を素早くよける身のこなしに驚く。
ジュリーはシュガーという女性そのものに驚いている。自分たち男と違うというだけでなく、男の添え物的な酒場のダンサーや芸能事務所の事務員とも違う種類の女性、こんな生き物がいると初めて知った驚きだ。

彼女は軽やかにヒールの音を立て、スラリと伸びた脚でリズミカルに歩く。その足の運びには躍動感があり、目的へ自ら進む意思さえ感じられる。困難など何てことないと示すように。後姿には自由も感じられる。
これまでと全く違う観念がシュガーの肉体を持ち、物語が進む方向を決定づけた。

映画『お熱いのがお好き』でフロリダ行の列車へと歩くマリリン・モンロー


ストッキングの線が真っすぐかを気にするシュガーには、見られる美しさと同時に、上昇という人間の意思も感じる。それは歌手という表現者の生き方にも通じる。無学を嘆くことなく、時には嘘をついても自分を良く見せようとする。
だが、女性美を際立たせる薄く透き通ったストッキングに包まれ、細いヒールで底上げされたシュガーの足は、開放的と同時に守ってくれるものがない孤立無援だ。しかし彼女は、それも自由の代償だと重々承知している。
ウィスキーのミニボトルを隠しているように、そこは秘密の場所でもある。禁酒法時代の酒という人間の欲望を、シュガーは女性の表層の陰に持っている。

この男と女の中間が、男の世界から逃げ出そうと女装するジョーとジェリーだ。二人はシュガーという新生物に目を止める。男として女に恋をし、一方では女として男から逃げる。物語は足を軸にした二つの展開で繰り広げられていく。

男にとっての男の足

男にとっての男の足とは少し込み入っているが、女装した男の話なのでこの様になる。一つ目は、足は常に男を悩ませる。スパッツはウイスキーにスパッツを汚され、女装したダフネはハイヒールに足をくじき、大富豪オズグッドは彼女の足に見とれる。
二つ目は男を動かすきっかけだ。ジョーとジェリーはシュガーを追って列車へ急ぐ。フロリダでは車椅子の宿泊客とホテルマンに変装したが、ハイヒールを脱ぎ忘れてマフィアの子分たちに見つかってしまう。

映画『お熱いのがお好き』で偽の大富豪ジュニアは足を出してシュガーを転ばせて出会いのきっかけをつくった


男にとって足は良い事態をもたらさない。しかし最後の三つ目だけは違う。足は相手の急所を打つ決定的な武器になっている。
これは、大富豪ジュニアに変装したジョーがわざと足を出してシュガーを転ばせたシーンのことを言っている。足は男に強力な手助けをし、そしてシュガーの人生を運命づけもした。
まさにそれを狙ってジョーは足を出し、シュガーは策略にまんまとひっかかってジャンプするように転がる。足が男にとって強力な武器になった唯一のシーンである。

男の笑顔と無表情

男にとって足が命や人生という根源的な一面に関わっているなら、足から最も遠く離れた顔は男の欲望や理性に繋がっている。その典型例が大富豪オズグッドの口を大きく開けた笑い顔だ。オズグッドはダフネに一目惚れして、さかりのついた猿のように本能むきだしの顔をする。画面に出ただけで芸達者だと思わせるジョー・E・ブラウンは、顔のつくりそのものが笑いを誘うコメディアンの見本だ。

だが、動物的な顔を見せるのはオズグッドだけではない。フロリダへ向かう列車で女装したジェリーは、シュガーを射止めたいとジョーに打ち明けるが、その告白よりも大きく開けた口のほうが男の本能を素直に表している。

映画『お熱いのがお好き』で男の醜さを笑い顔で表現する大富豪オズグッドを演じるジョー・E・ブラウン


笑顔が男の本能なら、反対の無表情は自分を抑える理性だ。刑事やボスに感情をあらわさないスパッツの顔は、計算済みの自己防衛策がなせる技と言える。大富豪ジュニアに変装したジョーの無表情は、恋人を死なせたトラウマがそうさせていることになっている。こちらも計算づくだ。

男の笑い顔は性欲をむき出しにした原始的な本能で、無表情はあえてそうしている理性的なしわざということだ。
ところでオズグッドもスパッツも、ジョセフィンを口説こうとするホテルのポーターも、全員の体が小さいのは単なる偶然で済ませられるだろうか?個人的にはそうではないと思う。

男と女の名前

男二人と女一人の三人組は恋愛物語の定番だが、役柄から命名を探ることができる。
ジェリーはジョーにジェラルディンと名付けられたが、自分でダフネに変更した。ギリシア神話ではアポロンから逃れるために月桂樹に姿を変えた女性の名前だ。今作のダフネは大富豪オズグッドから逃げている。また、思春期の世代や処女が抱きがちな同性への恋心と純潔、男性恐怖症を意味するダフネコンプレックスとしても用いられる。

ジョセフィーヌはジョーの変形で、歴史から探せばナポレオンの妻が思い当たるが、今作に相応しいかは疑わしい。
シュガーは甘いケーキそのものだ。彼女の体は男にとっては甘い獲物だが、実際の彼女は子供の頃の姉とのお遊びや儚い恋に憧れ続けている。純朴だが妄想とも言える。
ジョーもジェリーもこの甘さにやられる。スパッツまでもだ。彼は砂糖の塊であるケーキの偽物に隠れていた殺し屋に銃で撃たれてしまった。

映画『お熱いのがお好き』でマフィアのスパッツを演じたジョージ・ラフトと、かつての盟友エドワード・G・ロビンソンの息子エドワード・ロビンソン・ジュニア


余談だが、殺し屋ジョニーはスパッツを演じたジョージ・ラフトと何度も共演したエドワード・G・ロビンソンの息子だ。父親の名前にジュニアとつけられた男優は、ハリウッドでそれほど目立った活躍をすることなく若くして亡くなった。
ジュニアという名前が先祖名を受け継ぐ偽の大富豪と同じだが、こちらは偶然の一致かもしれない。

チャールズ・ラングのカメラ、オリー・ケリーの衣装

今作は脚本の段階で完璧に完成している。だが、もう一つ忘れてはならない要素がある。主役マリリン・モンローを見る楽しみだ。
極言すればスタッフは、マリリン・モンローを魅力的に魅せるためにあらゆる技術を使い、そして成功した。観客はその出来栄えに酔いしれる、それが映画『お熱いのがお好き』を見る喜びだ。ワイルダー監督が物語を家に例えた三幕目を、華やかに彩るまさにスターである。

カメラマンのチャールズ・ラングは、モンローを背景から浮き立たせるように撮影し、女神のような崇高さを与えている。ステージで歌うときは暗闇に輝く強烈な光を彼女に与え、それ以外のシーンでは顔に影を落とさない。たとえ夜であろうと背景を明るくさせる。

映画『お熱いのがお好き』で衣装を担当したオリー・ケリーのドレスを着て歌うマリリン・モンロー


オリー・ケリーの衣装は、モンローの体の上を流れているようだ。シカゴでの重くて黒いコートから、フロリダでの薄くて白いワンピースへの移り変わりは、気持ちの解放感も表している。
ステージで光り輝く黒いドレスのフリルやスパンコールは、子供の頃から抱き続ける数多の夢だ。そんな純朴さを表わす一方で、衣装は体の線を暗闇に浮きだたせ、裸以上に欲情的である。衣装部門がアカデミー賞を唯一獲得したが、モンローを魅力的に飾ったからかもしれない。

彼女が現代でもセックスシンボルと見られているのは、今作の歌うシーンと、『七年目の浮気』のスカートがめくれ上がるシーンがそれを成しえているからだろう。後者は健康的だが、前者は体に肉づきがよいことで性的な一面がより出ている。

シュガーの気持ちを表出する背景セット

撮影や衣装がモンローの外見を魅力的に演出しているように、シュガー・ケーンの気持ちと性格を肩代わりして描写している背景セットを見落とすことはできない。
フロリダへ向かう列車でシュガーはバンドを幾つも渡り歩いたと打ち明けるが、その背後の車窓を光が素早く横に流れる。電柱の電灯だろうがまるで流れ星のようで、過去の失恋を連想させる。

偽の大富豪ジュニアが待つ波止場へ走るシュガーは、新たな恋のはじまりに胸をときめかせる。ショーが終わった後で外は深夜のはずだが、バストショットで捉えられた彼女の背景に夜の暗さはない。
この直前、ダフネとオズグッド3世の横を自転車に乗ったジョーが通り過ぎるが、周囲は真っ暗だ。なのに次のシュガーのショットでは背景から暗さは消され、どこか人工的な薄ぼんやりした明るさがある。
暗闇のなかでモンローの顔に影を落とさずに撮影するとなると、どうしても不自然さが出る。そうならないため、このシーンは恋に憧れるシュガーの気持ちに合った画面の色調を優先したのだろう。

映画『お熱いのがお好き』で偽の大富豪ジュニアが待つ桟橋へと走るシュガー


桟橋へ走るシュガーの気持ちを、背景セットが最も鮮やかに代弁するシーンが続く。
シュガーは砂浜沿いに並ぶビルの前まで来た。1階は洋服店なのか、天井が高いガラス張りのショーウィンドーだ。その前をシュガーは走る。マネキンも洋服も飾られていない真っ暗なショーウィンドーに、照明が幾つも消し忘れられている。走るモンローの身体が瞬間的に照明をさえぎると、光は点滅しながら進んでいるように見える。
列車では、自分と関係なく光は背後を流れていくだけだった。だがこのシーンでは、シュガー自らが動いて光に生命を与えている。その瞬きは彼女の鼓動のようにも感じられる。

桟橋へたどり着いたシュガーを、カメラは波間から捉える。背景が全体的に明るくスタジオセットのように思えるが、背景の右奥を人影らしいものが動いていることから、そうとも言い切れない。ロケーション撮影中に偶然映ったのかもしれない。
何はともあれ、真夜中にもかかわらずこの明るい背景は、マリリン・モンローの全身をはっきり見せるためだ。

映画『お熱いのがお好き』で偽の大富豪ジュニアのボートに乗ったシュガー

しかし次のシーンには夜の印象がある。ボートに乗ったシュガーがまとう毛皮のマフラーには、柱の隙間から漏れる月の光の影が落ちている。
実際に撮影中のスチール写真があるが、空は暗くない。「アメリカの夜」で撮影されたのかもしれない。2001年公開のドキュメンタリーでも撮影は日中のように見える。もちろん白黒映像に色を付けただけかもしれず、確かなことは言えないが。

ステージを終えたシュガーがボートに乗るまではほんの数十秒のシーンだ。しかしモンローの演技とスタッフの技術によって、歌うシーンに並んで、いやそれ以上に彼女の魅力を存分に映し出している。

第四の主人公たる音楽

映画音楽は物語の展開を予感させ、人物の心理をうかがわせ、シーンを盛り上げることから、陰の主人公とも言われることがある。
1930年後半から60年代にかけて年に何本も担当していた作曲家アドルフ・ドイッチェによる今作の音楽は、冒頭から自分も主人公だと宣言するように存在を示す。

1930年代のコメディ映画の音楽は、オープニングクレジットとともに作品を印象づけるリズムではじまり、軽快な曲調でエンディングを締めくくっていた。『極楽特急』、『赤ちゃん教育』、『ある夜の出来事』がその典型だ。
だが『お熱いのがお好き』の音楽は、映画を盛り上げるだけではない。三人の主役とならんで自分が四人目にいると高らかに主張している。

映画『お熱いのがお好き』のオープニングクレジットで、音楽は主役三人に続いて自分がいると宣言している

オープニングでマリリン・モンロー、トニー・カーティス、ジャック・レモンの名前が三つのトランペットの音とともに現れ、四つ目に映画のタイトルが現れる。「Runnin' Wild」の軽快なリズムが流れてクレジットが終わり、最後に鐘の音が三つ鳴る。主役三人の象徴だ。
ここで音楽はアップテンポから一気に低音へ下がるが、まるで一息ついているようだ。この急激な変化が観客の気持ちを整えて、物語へすんなり入っていけるようにしている。
全編に音楽が流れて雰囲気を強めるが、人物よりもゼロコンマ秒だけ先に登場して心理描写をしたり物語の展開を予感させるなどは、まさにハリウッド流の音楽の使い方だ。

冒頭のリズムで作品を特徴づけ、鐘の音で人物を象徴した音楽は、エンディングで自らの存在を示す。
大富豪が言う「完璧な人間などいない(nobody's perfect)」で終わる物語にトランペットのスタッカートのリズムが続き、再び「Runnin' Wild」が流れる。最後に鐘が三度鳴り、オーケストラの大合奏で映画は終わる。
三つの鐘の音は、冒頭と同じく主役三人の象徴だ。では四つ目は何だろう?物語の結末を考えると、教会の鐘が連想できそうだ。
教会は愛を誓う場所で、結婚は男女の恋愛のゴールイン。愛で結ばれた二人が結婚し、祝福の鐘が鳴る。大合奏が幸せをさらに盛り上げる。

見落としてはいけないのが、エンディングにクレジットロールがなく、真っ暗な画面に音楽だけが流れていることだ。この短く心地よい余韻が、物語の結末を自分事に思わせる。観客に気持ち良く映画を見終えてもらう意図は、ワイルダー監督の考えとも合っている。

映画『お熱いのがお好き』の音楽が、唯一、登場人物の行動よりも遅れている桟橋のシーン

このように音楽は主役と同等の存在感を示す。だがその座を一か所だけ譲っている。マフィアから逃げようと大富豪のボートに乗ったジョーとダフネを追いかけて、シュガーが桟橋の階段を上るシーンがそれだ。
息を切らせるシュガーの気持ちは、偽の大富豪と待ち合わせた一度目とは全く違う。お金も優雅な生活も関係なく、本当に求めていた恋をつかむために、彼女は階段を駆け上がる。その足の動きは、小刻みな音楽のリズム以上に素早い。編集でフィルムの回転速度をあげたためだ。
スタッフが一度目とは違う技術で、恋焦がれている女心を表現した。感情と動作が映画的に結びつき最も劇的なシーンになっている。
そして二つの桟橋のシーンは、マリリンモンローの魅力である可愛らしさにも溢れている。

モンローの三曲

映画『お熱いのがお好き』でマリリン・モンローが歌う「I'm Thru With Love」

モンローは列車で「Runnin' Wild」、フロリダのステージでは「I Wanna Be Loved by You」と「I'm Thru With Love」と3曲歌う。どれも彼女の溌溂さや艶めかしさに満ちて、まるでこの作品のために作られたオリジナル曲のようだが、実は違う。それぞれ1922年、1928年、1931年に発表され、良く知られた曲だった。
しかし当時は牧歌的な曲調で歌われていた。それがモンローが歌いだしたとたん、血が通ったような気力を生み、艶をおび、悲しみに沈む。もちろん映像の力もあるだろうが、編曲者のアレンジに加えて、モンローの曲の解釈と表現は素晴らしいの一言だ。彼女は曲のイメージを一新し、決定的で唯一のものとした。

歌うモンローの容姿は、他の女性たちと明らかに容姿が違う。芸能事務所の事務員やバンドマスターは目鼻立ちは整っているが、厚ぼったい化粧と紋切型の物言いで、わざと醜く演じている。またバンドメンバーたちは、頬に肉がなく三角形の尖った顎で、細い体が貧弱に見える。
それに引き換え、彼女たちに囲まれたモンローのふくよかな上半身と丸顔は、太陽のように輝きながら周囲の者達を惑星のように引き寄せている。観客はこの吸引力に目が離せない。

スクリューボールコメディの集大成

映画『お熱いのがお好き』:1930年代のスクリューボール・コメディ映画を彷彿とさせる物語構成、映像、役者の演技

『お熱いのがお好き』は、物語の構造と人物の関係、撮影や照明など制作スタッフの細やかな仕事ぶり、人格をそなえた音楽、そして見た目の良い俳優など、どれもが時代を遡って1930年代に作られたかの印象を持つ。
白黒映画にした理由は、女装したトニー・カーチスとジャック・レモンを醜く見せないためらしいが、それよりもスクリューボール・コメディへの郷愁が本当の理由ではないかと勘繰ってしまうほどだ。

周囲にはフィルム・ノワールや社会性ある作品が目立ちはじめ、ニューシネマの芽生えも近い。そんななかワイルダー監督は、最後のスクリューボール・コメディをつくろうと意識したのだろうか。だとしたら、スクリューボール・コメディの集大成と言っても過言ではないはずだ。

最後に映画とは関係ない話題だが、今作は日本ではモンローの映画で、なぜか大人が見る作品だと思われている。映画館で上映されることもまずない。
しかし世界では、歴史に残る名作として広い世代に見られている。フランスでは子供にこそ見せたい映画だと言われている。実際、フランスを旅行中にダンケルクの映画館で、先生に引率された小学生たちと一緒に鑑賞したが、みんな大笑いしていた。これが文化に対する日本と西洋の意識の差なのかもしれないと、考えさせられた出来事だった。
世代や時代にとらわれずに映画を鑑賞する。話題性と関係なく、作品の価値を正当に評価し、芸術作品として受け継いでいこうとする意識が根底にあるのだろう。

今作は1930年代にドイツで製作された男が女装する映画を原案とし、禁酒法時代とマフィアを盛り込み、さらにコメディとして脚本が練られた。
無駄と切り捨ててしまえるシーンが全くない。役者は主役だけでなく、脇役たちも役柄に相応しい台詞と仕草で人物を活き活きと演じる。完璧と言えるほどに、作品が出来過ぎている。それ故に、窮屈さを感じる現代の人もいるかもしれない。

だが今作がコメディ映画の頂点であることは疑いようがない。
人を楽しませる何かを作るには、勢いやノリというその場限りの表現だけでは、時代という時間の流れに負けてしまう。そして監督独自の視点が作品の根底にないと、普遍性にはつながらない。映画『お熱いのがお好き』は、この証左としてこれからも生き続けていく。